2006年11月21日、パシフィコ横浜において開催されました雄松堂フォーラム2006。第一部は紀田順一郎氏による講演です。戦中にすでに老年期を迎えていた永井荷風。社会の一線から退き、第一級の創造性を失った作家にとって、長すぎる老後を有意義な活動に置き換えることは、不可能だったのでしょうか。荷風のある人間関係に着目し、戦時文学者の一行動パターンをとらえ、作家にとっての創造的な老後とはという問題に言及します。
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紀田 順一郎(きだ じゅんいちろう):評論家・書誌専攻。1935年神奈川県生まれ。横浜市在住。近代文学研究、情報論を中心に、古書ミステリを手がけている。2006年より神奈川近代文学館理事長をつとめる。(主な著書)『永井荷風』(1990、リブロポート)、『二十世紀を騒がせた本』(1993、新潮社)、『日本の書物』(1994、筑摩書房)、『日記の虚実』(1995、筑摩書房)、『紀田順一郎著作集』全8巻(1997、三一書房)、『日本の下層社会』(2000、筑摩書房)、『私の神保町』(2004、晶文社)など。最近、古稀記念出版として、20歳台の同人誌活動時代の文章を『戦後創成期ミステリ日記』(2006、松籟社)に収録した。1997年岡山県吉備中央町に書庫を建設、数年間の連載紀行を画文集にまとめた『吉備悠久』(森山知己と共著、山陽新聞社)を上梓。 近著『日本の書物〔決定版〕』(勉誠出版)、『幻想と怪奇の時代』(松籟社)。 |
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(1)はじめに(文学者と隠遁=出家遁世)
雄松堂フォーラム「本との出会い」ということで何か本に関係のある話をするということですが、今回は永井荷風をとりあげて、本と人との出会いに人間関係をからめた話をしていきたいと思います。
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日暮、途遠し。
吾生既に蹉陀たり。
諸縁を放下すべき時なり。
信をも守らじ礼儀をも思はじ。
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この一段は『徒然草』の中でも深刻な表現です。私は20代の頃から愛読していますが、今になって初めてその深刻さを理解できるような気がします。あらゆる縁を投げ捨て人との信も守らず、礼儀も考える余裕もない・・・やけ半分の心境を表したものですが、この講演「『偏奇館憂情』永井荷風の愛読書“Dream Life”をめぐって」のテーマに大いに関わってきます。荷風は戦中すでに66才と晩年を迎えていましたが、戦中および戦後と創作活動が思うようにいかなかった理由に、ある人との関わりがあったという話をしたいと思います。
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荷風が見た「夢」とは?
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(2)永井荷風と戦時下の隠遁生活
荷風は明治15年に生まれて昭和35年に亡くなります。偏奇館とは彼が今の六本木一丁目に買った木造瓦葺き二階建ての洋風の建物です。現在は東京都の碑が立っているだけです。荷風はこの偏奇館に大変愛着を感じていましたが1945年に東京大空襲で彼の蔵書とともに焼けてしまいます。そのいきさつが記されているのが38才から死ぬ少し前の80才まで42年間を綴った『断腸亭日乗』という日記です。戦時下の言論弾圧時代に筆を断った荷風が、どのような本に孤愁を癒していたのか・・・『断腸亭日乗』を見ていくと若き日の愛読書“Dream Life”『夢想生活』と“Reveries of a Bachelor”『独り者の夢』(いずれも大正期に邦訳あり)に感興を新たにしたことがわかります。
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夜銀座オリンピク洋食店にて沢田神代の二君に会ふ。沢田君余がためにわざわざ神田辺の古本屋にて Donald Mitchell の“Dream Life” といふ書を購ひ来りて贈らる。…余は始めて米国にわたりし時いかなる古本屋の店先にも必この書あるを見、且はまた夢の世といふ書名に心ひかれて之を購ひ読みたる事ありしが、…此頃老の寝覚にふと此書の事を思出し読返して見んと思ひしかど今は坊間には見当たらねば、つい其儘に打過ぎぬと語りけるに、沢田君曰く、…かの書は余も洋行中愛読せし事あり。…彼書は余が知れる古本屋にて見かけし事あり。今は殆ど世に忘れられし書なれば、買ふ人もあるまじ。 |
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『断腸亭日乗』
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“Dream Life”は「米国に渡ったときいかなる古本屋の店先にも必この書あるを見」、とあるように当時米国のベストセラーでした。荷風がその本のことを思い出し、話したところ、沢田君がわざわざ神田辺の古本屋で自分に買ってきてくれたとあります。この沢田卓爾(1894〜1956)と言う人は『黒猫』などを訳した英文学者でいわゆる趣味人でした。神代種亮(1883〜1935)は一種の好事家で校正の神様と言われていました。本の誤植を見つけては作家に手紙に書き、それで親しくなるといったような人で荷風好みの人物だったのでしょう。荷風はこのような趣味人達と付き合っていました。
つぎに昭和16年11月20日の日記に「"Reveries of a Bachelor"をよみぬ。」とあります。「房州山人坊間に捜り得たるを借覧せしなり」房州山人が古本屋で見つけたということです。房州山人とは後でお話する平井呈一のことです。 |
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此作家は千八百五六十年頃の米国の人にて其作は筆致清楚、哀愁多く誦すべきものなり。幼馴染なる一少女との間に結ばれし不幸なる恋のなやみを主題となせしなり。ラマルチン、ミュッセ、シャトーブリアン等の作品と一脈相通ずるところあり。この時代千八百五十年頃の人は哀愁ふかきロマンチズムの空想をよろこびしものと見ゆ。
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このように"Reveries of a Bachelor"を絶賛しています。荷風はロマンチズムの空想に富んだ本を戦中、執筆を禁じられた孤独な生活の中で愛読したのでしょう。
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(3)“Dream Life”とその著者
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Donald Mitchell
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ではこの2冊の作者、ドナルド・ミッチェルとはどういう人物でしょうか。19世紀前半から後半にかけて活躍した作家で、ペンネームをIk Marvelといい、ドナルド・ミッチェル(Donald Mitchell)は本名です。1822年にコネチカット州ノリッジに生まれ、祖父にあたる人が政治家で広大な土地をもつ有力者だったため、恵まれた少年時代を送ったようです。エール大学を卒業してイタリア大使館の領事になり政治家の道に入りますが、政治家に向かなかったところがあったのでしょう、1850年に"Reveries of a Bachelor"、1851年に"Dream Life" を発表し作家として有名となり、1855年、政治家から完全に足を洗って弁護士として生活をします。以後の著作としては "Old Story-tellers" "American Land and Letters" などの古典紹介があり、1855年86歳で亡くなります。いずれにせよ将来を嘱望された大物政治家の血縁でありながら文章の世界に入った人物で、夢見がち、空想好きな人だったのではないかと思います。
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図1"Dream Life"
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図2"Reveries of a Bachelor"
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図1は1984年にCharles Scribner's Sons から出た本 "Dream Life"。私のもっているものはこれより20年後に出たものですが、まだインターネットで本が探せない時代に知人が探してくれたもので、大変読んでおもしろいと思いました。もう1つの図2が"Reveries of a Bachelor"。現在ペーパー・バックをインターネットで簡単に手に入れられることができます。"Reveries of a Bachelor"、"Dream Life"両方とも佐々木邦 (1883 - 1964)による翻訳本が出ていました。
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"Dream Life" "Reveries of a Bachelor"和訳の広告
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この"Dream Life"は「序文」、「少年期の夢想」、「若き日の夢想」、「老年の夢想」という構成になっています。「少年期の夢想」は自分が恵まれた環境で少年時代を過ごしたことが描かれており、「若き日の夢想」から段々と夢想の世界に入っていく、例えば、自分は実際には修道院に入っていないのに、想像上でロマンチックな生活を送るとか、世間で名をなし、よい伴侶に恵まれることを空想していきます。そして最後の「老年の夢想」、これは過ぎ去りし過去や残ったものに思いをはせる章で、ここで夢想が終わります。つまりもう一つの自分の人生を描くという変わった回想記ともいえるものです。非常に独創的だと思うのですが、全体的にセンチメンタルでロマンチックなもう一つの人生を夢見ているということで、それが戦中の荷風の心境に合致したのではないかと思います。また、下記のようなミッチェルの一貫した思想が荷風の好みに合ったのでしょう。
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私は諸君が何慮まで世俗的であっても構わない。然し諸君の一生の中には有らゆる名利栄達が塵芥の如くに見え、偉人の 墳墓の邊に立って、自分の得意とする事の如きは物の数とも扱はれぬ来たらんとする永遠の國を夢想するときが有ると思ふのである。 |
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"Reveries of a Bachelor"の方の内容は、自分はまだ結婚してない、しかし結婚したらどうなるかということが述べられています。例えば祝儀の客が帰って一息ついたところにうるさい妻の親戚がくるとか、お茶の度に伯母達が何人もきて、まるで自分が妻を育てたような顔をするかとか、きたない甥っ子たちがやってくるとか、つまり妻を迎えるとどんなにマイナスになるかということを空想しています。「生涯係累はなきにしかず」といった荷風はこういうところに感銘を受けたのではないかと思います。
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(4)永井荷風と戦時下の人間関係
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ラインゴルトの女給と当時の銀座
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こういった本に空想を逞しくしていた荷風は戦中に何をしていたのでしょうか。廬溝橋事件以降、日本は段々暗い道を歩み始めます。荷風は1937年に 東綺譚』、1938年に『葛飾情話』、1939年に『改訂下谷叢話』を書きますが、戦中に 東綺譚』を越えるような作品はできませんでした。1944年には従兄の長男と養子縁組の手続をします。そして1945年に偏奇館が焼失してから岡山を転々とし、やがて終戦をむかえて1946年に『来訪者』を発表、新しい流れとなっていきます。戦中、まだ戦局が落ち着いていた頃は喫茶店、万茶亭やラインゴルトというキャバレー、戦後にかけて通ったオリンピック食堂、甘い物好きの荷風の日記に何度も出てくる冨士アイスなど銀座を根城にして戦時中のうさをはらしていました。
全体的に荷風の戦中の行動は隠遁という言葉にあたるのではないかと思います。日本の作家の中には抵抗を示した人、従軍した人もいましたが、荷風は悠々自適というか、隠遁と逃避という生活を送っていました。こう言ってはなんですが、困難なことに直面すると世を捨てたくなるのは『徒然草』以来の日本の文学者の伝統ではないかと思います。外国を見ても戦争中隠遁するという作家はあまり聞いたことがありません。考えてみるとretireは現役の人が退くものであり、日本の場合隠居をしているような人が更に隠遁するという概念にあたる英語はないかもしれません。
荷風の戦中・戦後にはある種の問題が出てきます。1937年に平井呈一との交流が始まり1942年に終わるのですが、始まりの前に母親の葬儀に欠席して「係累はなきにしかず」を態度でしめし、交流の終わった直後に従兄の長男と養子縁組の手続をしている。この辺りで何か平井との間にあったのではないかという推測が成り立つのではないでしょうか。
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東綺譚』のラストと平井の書評
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平井と荷風は想像以上に深い関係であったようです。交流があった昭和13年から17年の1773日の間に平井が偏奇館にやってきたのは134回。浅草などで会ったのは15回、偶然出会ったのは15回、平井からの手紙が25回、荷風の返信が6回、これらの数字は荷風の日記上記載されているだけのものなので実際はもっと交流があったのかもしれません。
このように大変深い交流の始まりは平井による 東綺譚』の批評からでした。 東綺譚』のラストを「…私はこの最後の一節ほど季節の変わり目を巧みに叙して、恋のあとのみだれた傷心の次第に収まりゆく心理の余韻を象徴的に描いた悲愁な文学をいまだ嘗て見たことがない。」と絶賛した書評を平井は荷風に送ります。さすがの荷風もこれだけほめられると悪い気はしなかったのでしょう、佐藤の門人から書評が届いたと1947年4月30日の日記に記してあります。そして平井の方はそれほど 東綺譚』に心酔していたので、何とか荷風と話がしたいと半月後に第2信を送ります。多分荷風はこれに返事を出さなかったと思いますが、さらに平井は6月16日、20日と矢継ぎ早に手紙を送り、とうとう荷風も7月7日「哺下平井呈一来り訪はる」と訪問を受けます。そして7月24日には「文学を論じて燈刻に至る」となり、8月31日「銀座食堂に飯す」と最初の手紙から4カ月後に荷風も落城するのです。そして10月あたりになると「二代目種彦の事を小説体に・・・」といった平井の提案を聞くようになり、人間嫌いの荷風も次第に平井を受け入れていきます。平井との仲が終わった後に書いた『来訪者』には荷風が平井という人物のどのように惚れ込んでいったのか示す記述があります。
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わたくしは白井が英文学のみならず、江戸文学も相応に理解して居るが上に、珠に筆礼を能くする事に於いては、現代の文士には絶えて見ることを得ないところでありながら、それにも係らず其名の世に顕れない事について、更に悲しむ様子も憤る様子もないのを見て、わたくしは心窃に驚嘆してゐたのであつた。 |
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平井呈一訳ハーン『怪談』
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礼儀正しく手紙をよく送り、そして英文学、江戸文学など、荷風の関心があることに絶大な知識を持っていた平井に荷風は惹かれたのでしょう。そしてこの門人のために荷風は一肌脱ぎます。荷風は日記を創作として位置づけ、これを戦後発表しようとしていました。当時は火災の危険もありましたし、警察が押収する可能性があったため、この複本作成を平井に依頼します。そして当時、中央公論社と岩波書店から出ていた全集の企画も平井に一任しました。また平井の訳したハーンの『怪談』の校正を引受ける、そのお返しとして平井が荷風の『雪解』の解説を書く、実際は平井が訳した非凡閣の『春色梅こよみ』に永井荷風の名義を貸す、このように麗しい師弟関係が生まれてくるのです。 |
(5)平井呈一(程一)について
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若き日の平井呈一
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平井呈一と猪場毅
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ではこうした平井呈一とはどういう人物なのでしょうか。1902年に川上音次郎の番頭の子(おそらく二男)として日本橋区浜町に生まれ、事情により蝋燭屋に養子に出されました(兄は東京上野の菓子屋に入る)。早大英文科に通いますが中退、そのころから河東碧梧桐に入門し、俳句の道に入ります。また佐藤春夫に師事し、佐藤名義でポリドリの『吸血鬼』を出して一部に知られるようになります。ちょうどこの頃に永井荷風と交友が生じるのです。そして戦時中には小千谷市に疎開、戦後はサッカレー『床屋コックスの日記・馬丁粋語録』を出し、絶後の名訳と評されます。1967年には『全訳小泉八雲作品集』により日本翻訳文化賞受賞、そして『真夜中の檻』を発表、ウォルポールの『オトラント城奇譚』、近代英国ホラー作家の三羽烏の一人、『アーサー・マッケン作品集成』の訳出など日本で初めてゴシック文学の本格的な紹介者として知られます。
佐藤春夫の門下生になった当時、平井はまさに文学青年といった風貌で、「富貴栄達を白眼に見る」ところも気に入ったのでしょう、荷風は知己を得たような心境になり、初めて本当に自分にぴったりの人物を見つけたと思ったのではないでしょうか、平井に著作活動の助手のようなことをやらせます。荷風くらいの作家になると色々なところから色紙や短冊等を頼まれますが、助手として平井は荷風の筆跡をマスターし代筆を始めました。しかしここで困った問題が生じます。偏奇館に出入りしていた猪場毅と言う人物が、そうした書を売るルートを知っており、偽筆を平井に量産させて儲けるということをもちかけるのです。平井もお金に困ることがあってそれに荷担してしまい、これが荷風の怒りを買って、遂に平井を「実に嫌悪すべき人物なり」とし、昭和16年12月20日、絶縁を心に決めます。 |
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平井は去年中岩波書店及中央公論社にて余が全集の相談ありし時余が著作物の整理及全集編纂を依頼したるを以て相応の利益を得たるに係らず窃に偽書偽筆本をつくりて不正の利を貪りつゝあるなり。今日までに余の探知するもの××四畳半襖の下張、短編小説紫陽花、日かげの花、 東綺譚其他なり。これ等は皆余が自譚筆の草稿の如くに見せかけ幾種類もつくり置き、好事家へ高く売りつけるなり。平井との交遊もまづ今日が最後なるべし。 |
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永井荷風『来訪者』
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実際にはっきりと絶縁したのは翌年の7月なのですが、この様な結果に至るにはいくつかの行き違いがありました。確かに書簡・短冊・原稿の偽筆は事実で荷風が怒るのも無理はないのですが、その他にも理由があったのです。まず平井が当時100円、今のお金でいうと50万円くらいですが、実兄を連帯保証人にして荷風に借金をした直後、連絡が間遠になります。細かい荷風のことですからかなり心配したと思われますが、当時平井の側としては親友の奥さんとの恋愛問題を抱えており、荷風のところへ足を運びにくい状況でした。その親友は病死してしまい、その為その女性、吉田ふみは両国のももんじ屋という料亭に勤めますが、生活は苦しく、平井はふみに生活援助をした上に本所で同居するため、お金を借りたのです。こうしたことは師匠に言い出しにくかったのでしょう、まごまごして連絡をとらないでいるうちに、荷風にとっては「白井」は性質淫蕩にて強欲冷酷となり、家主の「未亡人」と懇ろになると誤り伝えられ、ついには「未亡人」は白井を追いまわして事故死となったということになるのです。荷風としては自分の信頼していた門人に裏切られて頭に血が上ってしまったのでしょう。この平井の件に尾鰭をつけて書いた『来訪者』を戦後、昭和21年9月に発表してしまいます。 |
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小千谷市
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(6)平井呈一の知られざる戦中戦後
一方で戦争中、平井はどうしていたのでしょうか。平井は夫を亡くしたふみと本所で同居をします。荷風が気に入らないことの一つだと思いますが、平井は妻子があったのでふみとの仲は不倫関係でした。しかし家族と絶縁しておらず、それどころか新潟県小千谷に家族と疎開する際にふみも同行します。戦中ということもありますし少し特殊な関係であったようです。疎開中は県立小千谷中学校で英語教授や長岡市津上製作所で勤労学生の監督などをしながら、生徒たちに俳句を教えたり、泉鏡花を説いたりします。そして小千谷市明治座で『俊寛』『ドモ又の死』などの監督、また地元彫刻家と交流するといった活動もしていました(小千谷は文化的伝統のある地です)。つまり平井は荷風と対照的に戦争によって初めて社会との接点を持つのです。わたしも平井が教えた学生に会ったことがありますが、「来訪者」の中の人物とは遠く、本当に良い先生だったと話してくれました。1947年終戦を迎えると平井は浦和市(現さいたま市)に帰りますが、疎開中の経験は戦後平井の活動に大きくプラスしていきます。つまり、荷風よりも自由な、人間的な生活を送ったわけですが、しかし、そうした平井の実像を知らず、またその必要もないとする人々も多く、文壇の平井への態度は冷たいものでした。
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『全訳 小泉八雲集』
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戦後、平井はそうした文壇の悪評をよそに活動を続け、現在も八雲の訳の中ではベストかと思われる『全訳 小泉八雲作品集』(1964-5)(恒文社)を完成します。ただ、この直後に出た『明治文学全集 小泉八雲集』では平井が実質的に編集していながら中野好夫編となっています。つまり1965年辺りではまだ文壇の世界は平井を許していなかったということです。しかし平井は大変な速筆で仕事を続け、最初の創作で恐怖小説の傑作といわれる『真夜中の檻』をはじめ次々とゴシック文学の新境地を開拓していきます。
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(7)平井呈一の晩年
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『オトラント城奇譚』
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私が初めて平井氏にあったのは彼が50代半ば、私が20代半ばくらいでした。私はゴシック文学に関心があったことと荷風の日記や「来訪者」のモデルはどういった人かということで、千葉県君津郡大沢町で平井が隠遁生活を送っていたところを訪ねていきました。平井氏は大変歓迎してくれ、ウォルポールの『オトラント城』の原本を見せてもらいたいと頼むと書庫から出して、ウォルポールの家などを色々と説明してくれました。私が『オトラント城』をどうして訳さないのかと訊ねたところ、半分は訳してあるので本屋を見つけてくれたら訳すという話でしたので、6年後その約束を果たして平井呈一訳の『オトラント城』が実現したときには自分の本が出たときよりうれしかったのを覚えています。 |
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晩年の平井呈一
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平井氏の晩年は非常に恵まれたもの、荷風が書いたものよりはるかに豊かな晩年だったと思います。こうした平井の実像を何とか世に知らしめようと、平井氏の娘を奥さんに持つ芥川賞作家の岡松和夫が『断弦』(1993)を発表しています。また由良君良や牧水社の社長の菅原氏が平井氏との長時間のインタビューを通じて、平井の文学への思いや戦後の活動を記録しています。しかしそうしたインタビューでも荷風との事は一言も出ませんでした。私は初めての平井氏の訪問から、会うたびに伺おうと思っていましたが、明治時代を体現したように和服姿で端然と座っているのを見るとどうしても切り出すことはできませんでした。それとなく吉田ふみに聞くと、平井は決して自分が間違ったことをしたとは思っていないし、いつかは世間が分かってくれる、もし自分が間違ったことをしていると思うなら名を変えるというようなことを語ってくれ、ああそうか、そういうことで判断するのかと思いました。
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(8)作家にとって、創造的な老後とは何か
ここで"Dream Life"に話がもどります。
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独身であらうが家庭を有ってゐやうが、若からうが年寄だらうが、詩人であらうが労働者であらうが、諸君は依然として夢想家である。さうして何時か一度は自分の一生が一夢想に過ぎなかったと悟るであらう。 |
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これこそまさに荷風がこの作品を「夢の世」と仮訳した根拠、「人生は全て夢である」といった気分が出ています。ドナルド・ミッチェルはおそらく恵まれた一生を送ったのではないかと思われますが、そういう違いを省いて、ただ人生が夢かどうかという一点にしぼれば、荷風はドナルド・ミッチェルという人と共通の要素があったのではないかと思います。そこでもう一度『徒然草』百二十二段を見ると
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人の才能は、文あきらかにして、聖の教を知れるを第一とす。
医術を学ぶべし。
弓射、馬に乗る事、六藝に出せり。
次に細工、萬に要多し。
この外の事ども、多能は君子の恥づる処なり。詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世にはこれをもちて世を治むる事、漸くおろかなるに似たり。
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永井荷風
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実用性のあるものは必要であるが、その他のことはもういらないと大分きつい言葉で批判しています。兼好は神官の子供であり、幼い時から貴族社会の色々な矛盾を目にして武士に同情的でした。この段を前半部と後半部に分けると前半部は教育のことをいい、後半部は教養を意味しています。近代日本は世界に追いつけ、追い越せと表面的なものばかり取り入れ、実用的な知識、学問の中での特に法律、政治、科学に重点をおいてきました。しかしこうした考えについていけない荷風のような人達は、反近代主義ということをかかげ抵抗を示します。荷風は幼い頃から母について三味線を習う、落語家に弟子入りするなどいわば無駄なことをあえて行い、自分の文学的な立場を作りあげていきました。つまり日本の近代文学者の一つの有力な傾向として反実用的、薄っぺらい社会の価値観や体制に従わない反近代の精神があり、荷風もその一人だったのです。ところがそれが深化されようとした段階で思わぬ伏兵、つまり戦争によって創造的な交友関係が断たれ、弾圧によって執筆の機会もとざされて世をすねてしまう。荷風はもともと人間嫌いということもあり、文壇からできるだけ遠ざかろうとしていたため、いっそう人と人との関係をつくる契機が得られませんでした。もともと荷風の求めた人間付き合いというのは趣味的な点に限られており、平井との付き合いのように何か一緒にやっていく関係はまれだったのです。
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何かが生まれる出会いとは
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現在と当時の道義感覚の違いなども考慮に入れて、仮に平井に罪があったとしても、人権やプライバシーまで傷をつけ、そして後世の人に影響を与えてしまった荷風のしたことはどうか・・・という感じがします。
平井との出会いと不幸な別れは、日本近代文学の歴史の中で何か生まれる可能性を秘めながらあぶくのように消えてしまったという気がしてなりません。本の話をしようとして人間関係の話になりましたが、私は本との出会いもさることながらこの様な人と人との出会いの意味を考えることが多くなったので、今日のような話をさせていただきました。
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落款(断腸亭と平亭)
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(付記)
本講演をまとめるにつき、拙著『永井荷風――その反抗と復讐』(1990、リブロポート)や、平井呈一と姻戚関係にある作家岡松和夫氏の『断弦』(1993、文藝春秋)などを参照、さらに関係者の方々に伺った事実を取捨案配した。戦後活動のうち、俳句に関する事柄は省略に従ったが、最近新資料が出現している。
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