| ほんの世界はへんな世界 第三十回 |
TAKAMIIYA ESSAY ON BOOK (No.30)
|
|
気骨の人、チャールズ・マスカティン教授 (1920-2010)
|
|
ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer, 1340-1400)といえば、「英詩の父」と呼ばれて、英文学史を学ぶ者は、誰でも知っている。未完に終わったが『カンタベリー物語』はわが国でも数種の翻訳があるほど、よく知られた傑作である。当然のことながら、もっともイギリスらしいユーモアとペーソスにあふれた作品といえる。
 |
|
Geoffrey Chaucer
|
誰でもが英文学の傑作として疑わなかったチョーサーの作品には、若いころから親しんだ英文学の作品と同じく、いやそれ以上に詩人が読み親しんだフランス語作品の影響がある、として正面切って勝負した研究者が、戦後のアメリカで活躍した。この人こそ2010年3月に89歳で天寿を全うしたチャールズ・マスカティン教授(Charles Muscatine )である*。イェール大学で学士、修士、博士号を取得したマスカティンは、カリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとりながら、『チョーサーとフランスの伝統―様式と意味の研』Chaucer and the French Tradition: A Study in Style and Meaning(1969)を出版した。
その後イタリア人研究者ピエロ・ボイターニ(Piero Boitani)は、チョーサー作品に見られるイタリア文学の影響を徹底的に研究し、その流れは最近のデイヴィッド・ウォレス(David Wallace) などの研究に引き継がれてきた。要するに、現代においてチョーサー作品を本格的に研究するには、中世のさまざまな言語を学ばなければならない、という状況になったのである。2年ごとに国際学会を開催する新チョーサー学会が、2000年にパリで開いたのに続いて、今年2010年の夏にはイタリアのシエナで開くのは、故なしとしないのである。 |
 |
|
マスカティンは、その後も『チョーサー時代の詩と危機』Poetry and Crisis in the Age of Chaucer(1972)、『古フランス語のファブリオー』The Old French Fabliaux(1986)といった著書や、多くの論文を発表した。特にここに挙げた三冊は、みな小ぶりではあるが、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」という独創性の高い研究書である。
マスカティン教授夫妻とは、1980年代の終わりに夫妻がわざわざ東京に会いに来られ、私もサンフランシスコの対岸、バークレーの絶景を誇るお宅にお邪魔しただけでなく、ナパ・バリーに所有するブドウ園に連れて行かれて(そこで取れる良質のワインはすべて日本に売られたという)、贅沢な一日を楽しんで以来、ずっと学会でお会いしてきた。パリの学会のおりは、前日にセーヌ左岸の古本屋を冷やかしていたら、教授に遭遇した。昔留学した街だからか、いつもより悠然と歩いておられた感じがした。 |
 |
|
 |
Chaucer and the French Tradition:
A Study in Style and Meaning
|
ここまでのことなら、私は敢えてこの欄でマスカティン教授を取り上げることはしなかっただろう。新チョーサー学会や初期書物学会のニュースレターで、教授の死を知った私は、ネットで新聞の死亡記事を探してみた。すると、どの新聞も「赤狩り」と呼ばれた1950年代のマッカシー旋風に負けず、言論の自由を守るため敢然として闘った教授の筋を通した前半生に、光を当てているではないか。いつも温厚な表情を絶やさない教授に、そんな人間の良心に忠実に生きた証があったとは、うかつにも知らなかった。最近出席した国際学会で、このことを話題にしても、知らない世代の研究者が多かった。
映画『ローマの休日』も、ヘップバーンが演じるプリンセスの単純なラブ・ロマンスではなく、ハリウッドが襲われて危うい目を体験した映画製作者の意図が隠されていることは、わが国でも少しずつ知られてきた。アメリカでは、映画界(チャップリンは有名なケース)と同様に、学界も共産主義者のたまり場だとして攻撃の対象になった。私の知り合いでも、共産主義者かそのシンパと見られたモーゼス・フィンレー教授(コロンビア大学)が、祖国アメリカを捨ててイギリスに亡命し、ケンブリッジ大学のギリシャ古代史教授となり、私が所属したダーウィン・コレッジのマスターにもなった。イギリスは彼にサーの称号を与えた。
マスカティンは「活動家」としての一生を貫いたのであった。赴任したカリフォルニア大学バークレー校で、反共への忠誠の誓いを求められた若手教員の彼は、これを拒否し、仲間とともにキャンパスを追われた。他の大学で教えて数年後、彼の追放が違憲だとする裁判所の判決によって、ようやくバークレー校に復帰できたのであった。その当時の思い出を静かに語る教授のインタビューは、YouTubeで見ることができる。
|
 |
|
 |
|
チャールズ・マスカティン
|
バークレーといえば、その後も表現の自由を守るために闘う砦となり、マスカティン教授はニュースレターなどを発行して、学生たちと戦った。それは、大学を退職後も続き、バークレー校が保有する自家用ジェットを駆って、ワシントンに飛び、議会のロビーイストとして活躍したのである。
当然のように、マスカティン教授は素晴らしいティーチャーとして、教え子の記憶に残った。今年5月カラマズーで開催された国際中世学会では、わが師、ケンブリッジのチョーサー学者デレク・ブルーア教授追悼のセッションがいくつか行われたが、来年は彼の親友だったマスカティン教授追悼のセッションが行われる予定である。
私はこれを書きながら、16世紀前半に、ヘンリー8世の離婚問題に一切協力を拒んだトマス・モアを劇的に描いた映画『わが命尽きるとも』(1966)を思い出した。残念ながらモアは処刑されたが、同じ気骨の人チャールズ・マスカティンは表現の自由を守りながら、20世紀を生きたのである。今となっては、もっとその当時の話を聞きたかったと思うことしきりである。合掌。
|
 |
|
|